織田信長から学ぶ“強いリーダー像”
知らない人はいない⁉日本史における超有名人「織田信長」
日本史においてこの名を聞いたことがない人は、恐らくほとんどいないのではないでしょうか?
言わずと知れた尾張の戦国大名「織田信長」です。
尾張の小国に生まれ、幼少期~少年期はうつけもの(おろかもの)として蔑まれていたそうです。
ですが、桶狭間の戦いで駿河の大大名「今川義元」を破ってから、頭角を現し始めました。
今川との決戦の後も、怒涛の勢いで勢力を拡大しています。
- 「松平元康」(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃を平定。
- 室町幕府15代将軍「足利義昭」の上洛を手助けして天下人の後見人となる。
- 『楽市楽座』を実施。自由な商売環境の提供による経済繁栄を実現。
- 『兵農分離』による軍事力の拡大
- 数回にわたる『信長包囲網』(近隣諸国が手を結び織田家を倒そうとした)により、絶対的なピンチに陥るも何とか攻略。
- 鉄砲を革新的な方法で戦に応用(長篠の戦い)
- 日本の中心部をほぼ支配。天下統一まで後一歩のところにまで迫る
これを一代のうちに成し遂げています。なぜここまでの偉業を達成できたのか?そこには信長が持つ強いリーダー像が大いに関係しているのではないかと思います。
織田信長のリーダーシップとは
現代のビジネスにおいても戦国武将の生き方は指標として取り上げられることが多いです。
織田信長は、その最たる例だと思います。
戦国の覇者として小国の一大名に過ぎなかった彼がどうしてここまで、強大な力を持つに至ったのか。そこには彼の強いリーダーとしての資質が備わっていたからではないでしょうか。
迅速かつ大胆な決断と行動
リーダーにとって最重要能力が「決断」と「行動」です。どの組織においても最終的な意思決定をするのはトップになります。ですが、そのトップがその役割を果たせなかった場合、組織が混乱してしまうのは想像に難くありません。
(ありませんか?リーダーが優柔不断で行動してくれなくて困ってること・・・)
戦場においても、指揮官の決断と行動が軍の行く末を左右するといっても過言ではありません。
信長はとにかく「決断」と「行動」両方の力に優れています。その素早く大胆な決断と行動が何度も織田家の窮地を救い、また勢力拡大に貢献してきました。
これまで数多くの戦を乗り越えてきた信長ですが、その決断と行動が読み取れる代表的な戦を2つ紹介します。
- 桶狭間の戦い
- 金ヶ崎の退き口~浅井長政の裏切り~
桶狭間の戦い
信長の戦いの中で最も有名な戦いといっても過言ではありません。駿河の今川義元が信長のいる尾張国に侵攻してきたのです。
このとき織田の兵力約2000に対して今川は2万5000と10倍以上の差がありました。(諸説あり)
兵力・身分・経験すべてにおいて信長の上をいくのが義元でした。まともに戦ってはまず勝ち目はありません。また、誰もが今川軍の勝利を確信していました。
ですが、信長は違いました。
まず、徹底した情報収集を行いました。信長は家臣を使って今川軍の情報を常に把握しており、虎視眈々と機会を狙っていました。
そして、今川軍が織田軍の砦を攻めて兵力が分散し、かつ本陣にて休息をとっている絶好のタイミングを見事把握し、わずかな手勢を率いて最終的には今川義元を打ち取ってしまいました。
情報の力が非常に大きかったのは言うまでもありません。
金ヶ崎の退き口~浅井長政の裏切り~
元亀元年(1570)年、越前の「朝倉義景」を打つために出陣していました。織田軍は朝倉軍に対し優位に立ちまわり、勝利は目前というところまで迫っていました。
ところが、このタイミングでまさかの事態が発生するのです。
信長の妹「お市の方」の夫で、同盟関係を結んでいた「浅井長政」が信長を裏切り、朝倉と手を結んで挟み撃ちにしようとしているという知らせが届くのです。
とはいえ、あと少しで朝倉を倒せるかもしれない状況。更に信頼していた同盟相手の裏切り。ましてや妹の夫。普通ならそこで判断が遅れてもおかしくはありません。
ところが信長は即座に全軍撤退を決断。羽柴秀吉と明智光秀に殿を命じ、すぐさま命がけの逃避行に臨むのです。結果、信長は無事に逃げることに成功しました。
未来を見据えた先見性とアイデア
当時の常識を次々と打ち破り、いくつもの驚くべきアイデアを生み出してきたのが織田信長という人物です。その政策や軍事でもそれが垣間見えます。
政策
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- 関税を撤廃し、交通の自由化
- 税の免除
- 座を廃止し、自由に商売ができる仕組みを作る
これまでの既得権益を取っ払って自由経済が行えるように取り計らいました。これにより大きく国の経済は潤ったとされています。
軍事
信長はこの鉄砲戦術を時代を変える戦術として考えていたそうです。
最も有名なのは『長篠の戦い』ですね。
織田・徳川連合軍VS武田軍
織田・徳川は防護柵を戦場に建て、かの有名な『三段打ち』戦法を用いて武田軍を撃破したと言われています。
二次木津川口の戦いにおいて、最強とうたわれた毛利水軍を打ち破ったのがこれまた有名な『鉄甲船』と言われる織田軍有数の兵器です。
銃と大砲を装備している巨大鉄船であり、「鉄は水に浮かばない」という常識を覆したまさに水上の要塞です。
最強の織田家臣団を作った組織編成力
信長の家臣団はそれぞれが非常に優秀な能力を備えています。
- 羽柴秀吉
- 明智光秀
- 丹羽長秀
- 柴田勝家
- 前田利家
- 滝川一益
あたりが有名でしょうか。
また、信長の組織編成としては以下がポイントとしてあげられます。
信頼できる部下に各地の重要な土地の攻略を任せていた
成果を出したら正当に評価していた
自分のビジョンを共有していた
信長がカリスマ的な存在であったことは事実でしょう。しかし、信長一人で大きくなった織田家を統括することは不可能なのです。
そこで、信長は部下たちを様々な地域に派遣して重要な仕事を与えていました。そこの家臣たちの裁量に任せることも多かったです。部下に対する信頼もあったでしょう。重要ポジションを任されることで部下もまたそれに応えるべく働きました。
そして、年功序列ではなく、能力主義で部下を評価していました。そして、成果を出した部下にはきちんとした報酬を与えていました。部下も働きに見合う評価をもらうことで当然仕事により励んだと思われます。
また、信長は「天下布武」というビジョンを掲げています。リーダーがビジョンを掲げることでチームの方向性というのは定まってきます。当然、信長のビジョンが家臣団にも浸透することで、士気が高まったり部下の行動が変化してくるものです
織田信長は冷酷なワンマン経営者だった?
確かに信長は先進的で、まちがいなく時代を切り開く天才であったと言えます。
一方で厳しい方針についていけなかった部下がいるのも事実です。能力主義者であったがために、失敗した部下を追放したこともありました。
ここに注目すると、冷酷なワンマン経営者のイメージが強くなってくるかもしれません。
でも、実は信長はちゃんと謝罪をした家臣に対してはもう一度チャンスを与えているのです。
自分を裏切った者に対しても、むしろ一度は許しているのです。
例えば、信長家臣団で有名な猛将「柴田勝家」も一度は信長と敵対していた立場でした。松永久秀に至っては、2度も裏切りをしているのにそれを許しているのです。
現代においてなぜ強いリーダーが求められるのか
さて、では『現代においてなぜ強いリーダーが求められるのか』ということです。
ですが、不足の事態や困難事例が発生したときを想定してみましょう。リーダーとなるべき人が、逃げ腰の姿勢できちんと向き合わなかった場合、決断や行動をすべき状況で何もしなかった場合、そのチームはどうなってしまうでしょうか?
2020年、新型コロナウィルスが世界各地で大流行し未然のパンデミックを引き起こしたのは記憶に新しいと思います。日本も例外ではなく、私たちの生活様式は一変し大混乱にいたりました。
このときに、各国の指導者や会社の社長、あるいはリーダーたちは、この事態に備えるため、必死に舵取りを行っていきましたね。
未曽有の非常事態を目の当たりにした、現代に生きる私たちはそれをよく知っているのではないでしょうか?
この先行き不透明な時代を生き残るためにも
自分の周りにいる人たちを守るためにも
織田信長から強いリーダー像を学んでみませんか?
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