石田三成の信念とは~忠義のため嫌われる勇気を実践した知恵者~

歴史
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石田三成 最後まで諦めなかった真の忠臣

豊臣秀吉に仕えた家臣と言えば誰を思い浮かべますか?

秀吉には数多くの家臣がおり、優秀な人物はたくさんいました。

その中でも、特に目立っていたのが「石田三成」であったとされます。

三成は豊臣政権の中でも財務や外交といった部分を担当し、その才覚を高く評価されていました。

また、豊臣五奉行の一人として活躍し、

後の世に伝わる太閤検地や刀狩りなどの豊臣の重要政策にも深く携わっていたとされます。

しかし、豊臣秀吉が逝去した後、三成の人生に大きな転機が訪れます。

秀吉亡き後、豊臣家中は大きく混乱しました。

そして、豊臣五大老の筆頭であった徳川家康に不穏な動きがあります。家康は秀吉が取り決めていた大名間の婚姻の禁止といったルールを破る等して、徳川家の権力を拡大させるのです。

三成は家康の一連の行動に対して強い危機感を抱きました。

ところが、このタイミングで、三成とかねてから折り合いの悪かった「加藤清正」や「福島正則」ら武闘派の武将たちから屋敷を襲撃される「三成襲撃事件」が起こります。

これを仲裁したのが家康だったとされます。そして、この事件を機に三成は奉行職を解任させられることになります。

一方、家康は他の諸大名に圧力をかけつづけるなどしてますます権力を強めていきます。こうして、豊臣政権は完全に内部分裂を起こしてしまうのです。

そして、三成は各地の武将に協力要請を呼びかけ、天下分け目の大戦「関ケ原の合戦」に臨むことになります。

三成は西軍として家康は東軍として戦いました。最初は西軍が有利に戦っていましたが、小早川秀秋の裏切りから戦局は大いに変化。その他の諸侯も裏切りを見せ、西軍は敗北することとなります。

三成は何とか退却しましたが、領地の佐和山にたどり着く寸前で捕らえられ、京の六条河原で処刑されることになり、その生涯を終えます。

他の武将にはなかった強みとは

三成の強みは何といってもその冷静な頭脳です。戦に強い武将は他にも多くいましたが、内政面や財務管理の分野で力を発揮できる武将の存在は実は希少でした。

そして、三成は戦場においても活躍したのはご存じでしたか?

といっても、戦場での采配や槍を奮って戦ったと言うよりかは、情報収集と分析力並びに正確な事務管理です。

かの有名な「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれて以来、信長の後継者問題が早急な課題として挙げられました。この後継者を決めるために数々の政治的駆け引きが行われます。

そして、1583年(天正11年)に、「豊臣秀吉」(当時、羽柴秀吉)と「柴田勝家」による戦いが繰り広げられました。「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれる戦いです。

この戦で、石田三成は情報収集と分析を徹底して行いました敵の状況、気候、地形等あらゆる情報を集め分析し、三成の情報を元に戦略が練られていきました

三成の貢献度は非常に高く、秀吉は見事この戦に勝利します。この武功により、三成は近江国(現在の滋賀県甲賀市)「水口城」を与えられたとされています。

この他の豊臣の戦場に三成は出陣して、裏方から軍を支え続けました。こうした後方支援は戦においては必要不可欠な働きで、またそれができる人材も大変希少でした。

 

三成は真面目過ぎて嫌われた?

石田三成と聞くと嫌われ者のイメージが少なからずあるのではないでしょうか?

実際、三成のことを悪く記した資料も多くあったみたいです。これは江戸時代に徳川によって書かれた記録の中のものです。

つまり、歴史の勝者であった徳川の印象をよくするために、石田三成を必要以上に悪く書く必要があったということです。

しかし、近年三成の評価は見直されてきていることをご存じですか?

三成が東軍の諸侯を始めとするたくさんの武将から嫌われていたのは事実のようです。

これは、三成のまじめすぎる性格が原因と考えられています。

三成は豊臣政権の様々な財務や管理などを任されていました。そして、不正なども許せない性格だったのです。だから、他の武将たちの不手際があればそれを忖度抜きでありのままを秀吉に報告していました。

例えば朝鮮出兵のときのエピソードがあります。

二度にわたる朝鮮出兵で各地の大名・武将たちは苛烈な戦いを強いられました。戦いが長期化するにつれ、日本軍の補給路が断たれ、更には病原菌の蔓延で苦戦を強いられることになります。

そのような状況を見て石田三成は明国との講和を、つまり戦の終結を望みました。

しかし「加藤清正」はこれに対して異を唱えました。

加藤清正はこのとき前線で大いに活躍し、数多くの戦果を挙げていました。ただし、独断により前に出すぎて軍の足並みがそろわず、危険にさらしてしまうこともありました。それは、日本軍にとっての悩みの種でもありました。

石田三成はこのとき、豊臣秀吉に正確な戦況報告をありのままに伝えたとされています。

報告を受けた秀吉は激怒して清正を呼び戻し謹慎処分とさせました。

清正はこのことで三成に深い恨みを抱いたとされます。

清正以外にも、黒田長政や小早川秀秋といった武将も、戦場での不手際やルール違反といったところを秀吉に報告されることで、実際に不利益を被りました。このため、武将たちは三成への恨みを深めていったのです。
ただし、三成の役目は、元々戦の計画や準備などを担当し、戦場で働く武将達のサポートや連絡係が主なものでした。それゆえに、現場の状況を秀吉に報告することも重要な役目だったのです。

あくまでも三成は自分の仕事の義務を果たしただけですが、実際に戦場で命をかけて戦う武将たちからすれば三成のことが疎ましくて仕方がなかったみたいです。

 

三成の交友関係

三成に過ぎたるもの 島左近との出会い

「三成にすぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という有名な言葉があります。

三成の側近に「島左近」という武将がいました。

知勇兼備の武将で、軍師としても三成を支えたと言われています。

そんな島左近ですが、当時としてもかなり破格の待遇で、三成の配下になったというエピソードがあります。

石田三成が豊臣秀吉に40,000石を加増されたときの話です。

豊臣秀吉が石田三成に「何人家臣を雇ったのか?」と尋ねました。石田三成は「ひとりだけです」と答えました。豊臣秀吉は「そのひとりとはいったい誰だ?」と尋ねると、石田三成は「島左近です」と告げました。

石田三成は自ら島左近の家を訪ね、懸命に島左近を説したとされます。

島左近は断りますが、三成も粘ります。そして「家来ではなく兄として自分の側にいてくれないか」「待遇は20000石出す」と説得するのです。この必死の説得に島左近も折れて、三成に忠誠を誓うことになります。

島左近は関ヶ原合戦のときも命がけで主君のために戦い、最期まで三成に忠誠を誓い続けました。

 

大谷吉継との友情

更に、三成は非常に友情に厚い人物でもありました。

豊臣秀吉の部下に「大谷吉継」という武将がいます。大谷吉継は秀吉に「100万の兵を預けてみたい」と言わしめるほど有能な武将でした。そんな吉継と三成は親友同士だったと言われています。

しかし、大谷吉継はらい病(現代で言うハンセン病)に罹ってしまいます。

らい病は当時の不治の病であり、また皮膚がただれてしまうことから忌み嫌われていました。

当時の医学知識は現代ほど発展しておらず、人々は過剰に怖がったとされています。そのため、吉継はふさぎ込んでしまいました。

ある日、豊臣秀吉が武将を集めて茶会を開催しました。当時は茶の文化が盛んで茶会は大切な社交の場でもありました。

そこに三成と吉継も招待を受けました。

茶会では秀吉が点てたお茶を、家臣達で回しするのが決まりでした。しかし、吉継の番になったときに、顔の膿がお茶の中に落ちてしまいました。参加者たちはこれを気味悪がり、誰もお茶を飲もうとしませんでした。

ところが、三成がそのお茶を平然と飲み干し美味しかったので全部飲み干しました。もう一杯いただきたいです」と堂々と言い放つのです。

吉継はこのことを大変恩義に感じたとされています。このとき、吉継が三成に対して抱いた感謝は想像に難くありません。

それから数年が経ち、関ヶ原合戦が起こったとき、三成は吉継の下を訪れて味方になってくれるように頼みます。しかし、吉継は猛反対します。これは親友の身を案じてのことだと言われています。

ですが、三成の決意が固いのを見て三成に味方することを決意します。そして、関ケ原で小早川秀秋が裏切った際には盾となり三成を守りました。彼もまた最期の瞬間まで三成のために戦ったのです。

最期の瞬間まで諦めない

三成は関ケ原の敗戦の後に捕らえられ処刑されました。

処刑場である京の六条河原に連行される最中に「のどが渇いたから水が欲しい」と三成が警護係に話しかけます。

警護係は「水はない。柿ならあるからこれを食べろ」と柿を勧めます。

しかし、三成は「柿は痰の毒だからいらない」と言い放つのです。周囲の人間は「これから処刑される人間が何を馬鹿なことを言っているんだ」と三成の言動をひどく馬鹿にします。ですが、三成は「大きな志を持っている者は、最期の瞬間まで諦めないのだ」ときっぱり言い放つのです。

 

三成は思ったことはハッキリと伝える性格でまた不正を許さない性格でした。真面目過ぎて不器用な面があったのかもしれません。現代でも、そういう人物が疎まれてしまうことは珍しくありませんよね。

現代人が学ぶ三成の信念と勇気

 

 「大一大万大吉」の精神~一人は皆のために、皆は一人のために~

 

この「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)という言葉は、石田三成が家紋として用いていました。

意味は「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」というものです。

ラグビーの合言葉“One for all ,all for one.”(一人はみんなのために、みんな一人のために)にもどこか通じるものがありますね。

つまり、三成の考えの根底には「誰かのために」があったのではないかと推察されます。

組織のために「嫌われる勇気」を実践した

三成が武将たちから嫌われていたのは事実のようです。

確かに武将たちからすれば、真面目で潔癖すぎる三成の存在が疎ましかったのは理解できます。

しかし、組織の健全な運営のためには、物事を正確に把握し不正に対して厳格に対応する役回りの人材も必要です。

もし、ルールを皆が守らずに好き放題していたら、その組織はどうなってしまうのでしょうか?

誰しもが自ら好んで嫌われたくはないはずです。摩擦を恐れて言いたいことが言えずに不正を見逃してしまうこと、あるいは「このくらいいいじゃん」と妥協してしまうことは、きっとよくある光景なのかもしれません。

しかし、三成はそうではありませんでした。豊臣家という大きな組織を守るために、自ら汚れ役を引き受けていたということになります。

 

自分の大切な人を大切にする

三成は非常に優秀で、また真面目過ぎる人物でもありました。

そのため、敵を大勢作ってしまったのは否めません。もし、三成がもう少し融通を利かせていたらまた日本の歴史も変わっていたのかもしれません。

ですが、三成は自分の信念を曲げることなく豊臣家のために生涯をささげました。

「大一大万大吉」を掲げたその生き様は、大変誇り高いものだったのではないでしょうか。

最後になりますが、現代において三成のような信念と勇気をもって行動できる人が、一体どれだけいるのでしょうか。

現代に生きる私たちは三成から多くを学べるのかもしれません。

 

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