真田幸村の諦めない力~不遇な時代を乗り越えて見せた輝き~

歴史
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日の本一の兵(つわもの)真田幸村

 

好きな戦国武将といえばこの人!というのは人によって意見が分かれるところでしょうが、

戦国武将でも屈指の知名度と人気を誇る武将が「真田幸村(信繁)」です。

ゲームや小説などの二次創作でも大活躍をしていますね。

そんな真田幸村ですが「日の本一の兵(つわもの)」として語り継がれています。

大阪の陣で徳川軍に対して勇猛な戦いぶりを見せつけたことからそう言われているそうです。

 

もう諦めようと思っているあなたへ

人生を生きる中で、必ずしも順風満帆とはいきませんよね?

勉強やスポーツ、ビジネスでもそうですが、ずっと芽が出らずにもう諦めてしまおうかと悩んでしまうことあるんじゃないですか?

確かに、諦めてしまう方が楽かもしれませんし、そういう選択肢も場合によってはありだと思います。

ですが、そう割り切っていたつもりでも、心のどこかでしこりが残って後悔をしてしまうということは経験あるのではないでしょうか。

そんな方のために

真田幸村の諦めなかった生き方をここでご紹介させていただきます。

実は長年不遇だった真田幸村

今でこそ、戦国武将の中でも屈指の知名度と人気を誇る真田幸村ですが、実は若いころはとても不遇な立場だったのです。

幼少期は、上杉や豊臣といった、父の「真田昌幸」が仕えた家に人質に出され続けてきたのです。

これは、真田という弱小勢力が生き残るための戦略でした。

幸村は、上杉や豊臣の下で人質として過ごしながらも武将としての在り方を学んだとも言われています。

そして、1600年(慶長5年)『関ケ原の戦い』が起こりました。

このとき、真田家は、家族が別々の軍について戦ったとされています。

西軍についたのは幸村と昌幸(父)

東軍についたのは信之(兄)でした。

これも、どちらが勝っても真田家を残らせるための昌幸の戦略だったとされます。

真田昌幸、幸村親子は関ケ原には向かいませんでしたが、途中の上田城にて東軍の徳川秀忠の大軍を足止めする活躍を見せました。

この功績は西軍にとって大変大きなもので、真田親子の奮戦がなかったら、西軍の崩壊は待ったなしだったと思います。

西軍が破れた後、真田幸村と真田昌幸は死罪を言い渡されました。

兄の真田信之の懇願により死罪だけは免れたものの、紀伊(現在の和歌山県)の九度山へ流罪とされてしまうのです。九度山は真田家の本拠地の信濃から大きく離れた場所でした。

九度山での生活は平和でこそあったものの、武将としての誇りも奪われることとなり、父の昌幸は失意のうちに亡くなったと言われています。

真田幸村にとっては、武将としての誇りを取り戻すこともなく、このまま死をただ待つだけだったのです。

一世一代のチャンス~日の本一の兵(つわもの)になるまで~

ところが、幸村にチャンスが到来するのです。

1614年(慶長19年)に豊臣秀頼が浪人を募集していました。豊臣と徳川の対立が激化し、戦に備えるためです。幸村にもその声がかかったのです。

幸村は豊臣秀頼の要請に応え、戦に参戦することを決意するのです。

後に『大阪の陣』と呼ばれる戦いです。この戦いは2度起こり、それぞれが『大阪冬の陣』『大阪夏の陣』と語り継がれています。

大阪冬の陣~真田丸での奮戦~

まず、『大阪冬の陣』が始まりました。

徳川勢20万の軍勢に対して、豊臣勢は10万人。圧倒的に不利な状況でした。

ところが、幸村はこの状況を覆すのです。

幸村は戦にあたって、大阪城の構造を徹底的に研究しました。そして南側が弱点であることを見抜くのです。

その弱点を埋めるために、『真田丸』という出城を築きました。

幸村は真田丸で徹底抗戦を行い、あれほど大きな戦力差があったにも関わらず徳川軍に大打撃を与えるのです。

豊臣・徳川お互いが消耗したことで、両者は和議を結ぶことになります。

ところがこの講和の後、大阪城の堀はすべて埋められ、防衛に必要な設備も破壊され、当然真田丸も破壊されてしまいました。

大阪城はもはやかつての難攻不落の城とは程遠い、ハリボテ同然の城になってしまったのです。

大坂夏の陣~日の本一の兵になるまで~

徳川家康はその後も豊臣家に無理難題を吹っ掛けました。豊臣家は当然抗議します。そして、再び戦が始まることになるのです。

1615年(慶長20年)『大坂夏の陣』の火蓋が切って落とされました。

 

幸村はこの絶望的な状況の中からも必死で勝ち筋を見出そうとしました。

「このハリボテの城では勝ち目がない。ならば打って出るしかない」

そう決断するのです。

こうして、幸村は無謀とも思える突撃を徳川軍に行いました。

ここで獅子奮迅の活躍を見せるのです。次々と徳川の軍勢を突破し、なんと家康の本陣まで迫るのです。

その鬼気迫る勢いはすさまじく、あの家康に切腹を覚悟させたほどだと言われています。

そんな幸村でしたが、家康の首まで後一歩のところまで届かず、最終的には幸村は打ち取られてしまいました。

豊臣軍も総崩れとなり、豊臣家は滅亡し徳川方の勝利に終わりました。

真田幸村の諦めない力

真田幸村は実はこれまでずっと父の陰に隠れていたのです。

真田昌幸は各国にその名を轟かせた名将でした。しかし、幸村は目立った存在ではありませんでした。事実、徳川家康も大阪の陣が始まるとき、豊臣方に真田がいると知って家康は激しく狼狽しました。ところが、昌幸ではなく幸村だと知って安堵したそうです。

 

幸村が実は無能だったというわけではありません。

むしろ、父の戦略を肌身で感じ続け、人質とはいえ名だたる武将の側に仕えたことで、武将としての器量は十分にあったと思われます。

しかし、実力を発揮する機会に恵まれなかったのです。特に、九度山に流罪となったときは、このまま失意の内にその命を散らしてしまうのではないかという状況でした。

 

でも、その不遇な時代が続いて遂に転機が訪れましたね。

確かに、豊臣方の勝ち目は薄いし、そもそも絶望的な状況だったことに変わりはないかもしれません。それでも、幸村が積み上げてきた全てを出し切ることで、あの徳川家康を追い詰めました。

幸村は「日の本一の兵(つわもの)」として称えられることになります。

今は光が見えなくても、諦めないことでチャンスが巡ってくる

 

 

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