徳川家康は『自己覚知』の達人だった⁉~生きる力と天下人への道~

歴史
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実は不人気?江戸幕府開祖。徳川家康

 

徳川家康。言わずと知れた江戸幕府初代将軍です。

信長や秀吉と並ぶ戦国3大武将とも言われています。

ただ、その2名と比べると華がないとも言われているのが家康です。。。

確かに、信長のような時代を切り拓く覇道を開拓したわけでもなく、秀吉のように農民から天下人まで成り上がったわけでもありません。

でも、家康はそんなただの華のない人物なのでしょうか?

 

自分をコントロールするのは難しい。悩める現代人

 

「チャンスは必ず来る。今は焦らずに待つときだ」

 

こんな感じの言葉よく聞きませんか?

もちろん、この言葉はある種正しいです。

 

  • 練習を重ねて部活のレギュラーになった
  • 業績を積み重ねて、上の役職に昇進した
  • ビジネスを展開して、長い年月を重ねてようやく軌道に乗ってきた

そんな事例はいくらでもあります。

でも、実際問題、私たちは未来が予知できるわけではありません(できたらすごいです)

 

「諦めたらそこで試合終了ですよ」

こんなセリフを聞いたことがありませんか?

超有名なバスケ漫画の超有名なセリフです。

 

頭では誰しも「諦めたらそこで終わり」なのはわかっているんです。

それでも、いつまで続けたらいいのかわからない

がんばったら報われるかもしれないけど、そんなに頑張り続けることはできない

ずっと忍耐を続けるなんて耐えられない

 

そんな気持ちを少なからず誰しもが抱いていると思います。

 

そして、様々な情報が飛び交う現代において、今の若い人たちは、コスパ重視で早く成果を求める傾向にあると言われています。

具体的に言うと、

  • 最短1か月で即稼げる!ネットビジネスの極意
  • たった2週間で痩せる!魔法のサプリ
  • 3か月で収入爆上げの秘訣

みたいな比較的短期間で成果が出ることをアピールするビジネスや商品に心を惹かれがちになったりしますよね。

また、会社に就職しているとしても、長く勤めあげるというよりかは転職前提で考えており、成果が出る前にすぐにやめてしまいます。

こんなことが起こっています。

 

それらの行為が悪というわけではありません。

ですが、実際のところ、短期間での成果というのは現実的には難しいことが多いです。

特にネットビジネスや商品の場合は、最悪詐欺などに巻き込まれてしまうこともあります。

 

成果がすぐに現れるという保証は残念ながらほとんどの場合ありません。

結局のところ、成果を出したいのであれば、地道な努力がとても大切になってきます。

徳川家康はそんな地道な努力をずっと続けて、天下人になった人なんです。

 

家康の忍耐人生

人質として過ごした幼少期

家康は、三河の国(現在の愛知県東部)の松平の嫡男として生まれました。

しかし、6歳のときに駿河の大大名今川義元の所へ人質に出されることになるのでした。

ところが、家臣の裏切りにあい、今川ではなく織田家に売り渡されているのです。

(わずか6歳にも関わらず、中々のハードモードだと思いませんか?)

織田家には2年滞在して、それから今川家に送られました。

 

青年期突入。今川滅亡からの織田徳川同盟

それから、大人になった家康ですが、今川の武将として戦っていました。

しかし、かの有名な桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に打ち取られてしまったのです。

人質として過ごした幼少時代。更に大人になったら、主君が打ち取られてしまうというまさかの展開。

ここで家康がとった選択は織田信長と同盟を結ぶことでした。

 

妻子を処刑。苦渋の決断

家康には妻子がありました。

妻は今川の血筋であり「瀬名姫」(築山殿)といわれていました。

瀬名姫との間には長男の「信康」がいました。

そして、信康は信長の娘の「徳姫」と婚姻関係にあったのです。

 

ある日、徳姫が父の信長に「瀬名姫と信康が武田家と内通している」という告発をするのです。

信長は当然怒り、瀬名姫と信康は謀反の疑いをかけられることになるのです。

最終的に正室と長男の命を奪わざるを得ない事態になってしまいました。

 

信長との関係性は今後の武将人生において絶対に切っては切れないもの。とはいえ、家康なりに妻子への情もあったでしょう。

相当の葛藤があったことは想像に難くありません。

 

秀吉VS家康~戦に勝って勝負に負けた~

織田信長が亡き後、信長の後継者問題でもめにもめていました。

秀吉は信長の孫の三法師の後見人として権力を高めていました。

それを危惧した信長の息子、織田信雄が家康に助けを求めるのです。

 

こうして、秀吉VS家康の最初で最後の直接対決が繰り広げられることになるのです。

『小牧・長久手の戦い』として今も語り継がれています。

 

秀吉軍のほうが数が多く有利かと思われましたが、

家康は野戦においては恐るべき力を有しています。

緒戦においては家康が勝利をおさめ、「池田恒興」や「森長可」といった名だたる武将を打ち取り、状況は徳川方に有利に進んでいたのです。

 

でも、秀吉は純粋な野戦で不利とみるや、調略を進めていきました。

最終的には織田信雄が家康に断りもなく和睦を結んでしまったことにより、徳川方は大義名分を失いました。こうして、天下の風向きは秀吉に吹いていくことになってしまいました。

 

三方ヶ原の惨敗。自らの短気を戒める

忍耐強さがウリの家康ですが、実は短気だったとも言われています

家康の代表的な戦に武田信玄と戦った『三方ヶ原の戦い』があります。

当時、室町幕府15代将軍足利義昭による信長追討令が各地に出され、信長包囲網が張り巡らされていました。武田信玄はそれに応える形で、進軍を行っていました。

武田信玄の侵攻ルート近くに家康の居城である浜松城がありました。ところが、信玄は浜松城を素通りしてそのまま進軍を続けたのです。

家康は籠城のつもりで待ち構えていましたが、信玄からは完全スルーされてしまったのです。

ここで家康は何を思ったか、家臣の反対を押し切って信玄を追撃するために出陣しました。

ところが、信玄は実は三方ヶ原で待ち構えており、家康は結果惨敗して命からがら逃げかえることになります。

家康の命は助かり、徳川家も滅びずにすみましたが、多くの家臣や兵を失い、結果だけ見たら家康の完敗でした。

でも、ここで終わらないのが流石後の天下人。

家康はこのときの情けない自分の様子をなんと絵に描かせたのです。

そして、その絵を終生大切にし、自分の戒めとしたそうです。

 

現代で言ったら、黒歴史ノートを「若気の至りとして終わらせない」と額に入れて飾っているような感覚でしょうか?(笑)

そんなこと普通は恥ずかしすぎてできませんよね?(多分、真っ先に消し去りたい人生の汚点なのではないでしょうか…)

 

でも、家康はそんな恥ずかしいことをやったんです。

自分の軽率な判断で多くの犠牲を払ってしまったことを、絶対に忘れないという強い覚悟がみえますね。

 

実は秀吉に負けず劣らずの人たらし?

人たらしと言えば、豊臣秀吉が有名ですが、

実は家康も秀吉に負けず劣らずの人たらしだったのではないでしょうか?

徳川家臣団の結束の強さは有名ですし、

関ヶ原合戦においても「加藤清正」や「福島正則」といった豊臣子飼いの武将たちを次々と自分の仲間に引き入れることに成功しているのです。

 

家康には徳川家臣団という、忠誠心の高く非常に優秀な家臣たちがいました。

  • 家康に過ぎたるもの「本田忠勝」
  • 伊賀忍者の棟梁「服部半蔵」
  • 井伊の赤鬼「井伊直正」
  • 家康のブレーン「本多正信」

など魅力的な武将がたくさんいます。

 

そして、家康は家臣をとても大切にしていました。

家臣を大切にしていることがわかるエピソードがあります。

豊臣秀吉が、あるときに諸大名を集めて自分の宝物の自慢をしました。秀吉は天下人になったので、あらゆる財宝をその手に集めていたのです。

そして、秀吉が家康に「自分は天下の宝の大半を集めた。あなたはどんな宝物を持っているのか?」と尋ねました。

家康は「自分にはこれといって特別な財宝はありません。ですが私のために命を懸けてくれる家臣こそが一番の宝です」と答えたそうです。

 

家康が部下を大切にしていることがよくわかりますね。そんな家康だったからこそ、優秀で忠義に厚い家臣が大勢集まったのだと思います。

 

 

自己覚知で学び生きる力を蓄えた

幼少期は人質として過ごし、青年期には主君を倒される。更に、最強の敵に完膚なきまでに叩きのめされ、妻子も失うことになってしまった半生。

そして、秀吉との権力争いに敗れ、一時は秀吉の部下として過ごすことに。

家康の人生を見るとなかなかのハードモードでしたよね。

でも、家康は着実に力をつけ、信頼も獲得していきました。

やはり、類まれなる忍耐力の持ち主だと言えるでしょう。

そして家康の忍耐を支えたのが「自己覚知」

自己覚知とは、対人援助職がよく使う手法です。

自分自身の行動、価値観、性格などをしっかりと把握し向き合った上で業務にあたるという考え方です。

 

つまり、自分自身をよく知った上で、自分の行動を振り返り改善していくということです。

己を知り、反省し、次に活かした。「自己覚知」が類まれなる忍耐を育んだ。

 

失敗から本当の意味できちんと学んでいる人が一体何人いるでしょうか。

 

また、家康は「狸おやじ」とも言われていました。

時には謀略を使い、卑怯ともいえる手段を使ってきたわけです。

 

それでも家康は戦国乱世を「生き延びる」ために諦めませんでした。

戦国を生き抜くのは何のためでしょうか?

平和のため。家臣のため。

家康の中で信念があり、それを果たすためです。

目的を果たすために、耐え忍び「生きる力」を着実に育ててきた

 

そして、家康は戦国の世を終わらせ、長年にわたって戦のなかった江戸時代を作り上げました。

家康の名言に以下のようなことばがあります。

 

「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」

つまり「人の人生は重い荷物をもって長い道のりを歩いているようなものだから、無理に急ぐ必要はない」ということを言っているのです。

 

逆境にあっても、常に忍耐を続けチャンスを狙いつづけることは、並大抵のことではありません。

 

でも、家康はそれを成し遂げました。

自分自身を常に振り返り、失敗を次の糧につなげていく。

この積み重ねが、できるかできないかがこれからの人生を左右するのかもしれませんね。

 

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